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1-2. 小栗小栗上野介忠順との深いつながり<2/2> (2025.10.19)


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1-2-2 倉賀野河岸との具体的関係
小栗上野介と倉賀野町の関係は、物資輸送の要衝としての河岸機能を通じて形成された。慶応4年(1868年)2月28日に江戸駿河台を出立した小栗は、3月1日に権田村東善寺に入った。この際、大量の荷物が江戸から運ばれたが、その一部は倉賀野河岸を経由していた。
特に注目すべきは、『小栗日記』の慶応4年4月8日の記録で「午後秣場~観音山へ・倉賀野河岸から大砲その他荷物が着く」と明記されていることである。この大砲は砲弾も火薬もない飾り物であったが、小栗の荷物が倉賀野河岸を通じて運ばれていたことを示す貴重な史料である。
 地元の研究者である矢島ひろ明氏は、小栗上野介の大砲や大量の荷が倉賀野河岸に届いていたという確証を得て、平成4年(1992年)に『小栗上野介忠順 その謎の人物の生と死』を出版し、倉賀野を全国的にPRする活動を行った。
1-2-3 徳川埋蔵金伝説との関わり
小栗上野介と倉賀野町の関係は、徳川埋蔵金伝説の文脈でも語られている。明治新政府は江戸城開城時に金蔵が空であったため、幕府御用金を探索し、その手は勘定奉行であった小栗にも及んだ。「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」という証言まで現れ、群馬県高崎市倉賀野では戊辰戦争の際に新政府軍が蔵に踏み込んで御用金を探したとされている。
実際には、小栗は横須賀製鉄所などの建設に大量の資金を投入した責任者であり、資金を蓄財する必要性も能力もなかったと考えられるが、こうした伝承は倉賀野河岸の物流拠点としての重要性と、小栗の政治的影響力の大きさを物語っている。
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